体育会出身者を採用したものの、「入社後しばらく本来の力を発揮できていないように見える」「以前ほど目標に向かう姿勢が感じられない」といったギャップが入社後に生じうることは、採用の現場で論点になりやすいテーマです。スポーツ心理学の分野では、選手が競技のステージを移行する過程を「キャリアトランジション」として研究対象にしてきました。この記事では、アスリートのキャリアトランジションに関する代表的な研究を紹介し、体育会出身者のオンボーディング設計に応用する際の注意点を整理します。
結論:トランジション研究は「移行期に負荷がかかりうる」という視点を提供するが、体育会出身者全員に当てはまる法則ではない
アスリートのキャリアトランジション研究は、競技者が新しいステージへ移行する際に一定の心理的な負荷や適応プロセスが生じうることを示してきました。ここから、体育会出身者が「競技引退」と「就職」という複数の移行を同時期に経験している可能性がある、という視点を得ることができます。ただし、これらの研究は職場への定着や活躍を直接検証したものではなく、「体育会出身者は入社後の適応で苦労しやすい」あるいは逆に「早期に活躍しやすい」と一律に結論づけるものではありません。採用担当者にとっての実務的な意味は、移行期に負荷がかかりうる社員がいるという前提に立ち、個別の状況を確認しながらオンボーディングを設計することにあります。
アスリートのキャリアトランジション研究とは
スポーツ心理学では1990年代以降、選手が競技人生の中で経験する複数の移行(トランジション)を体系的に研究する分野が発展してきました。トランジションには、ジュニアからシニアへの移行、シニア内でのレベルアップ、そして競技からの引退という、多くの選手が経験する予測可能な移行と、怪我や戦力外通告のように予測しづらい移行の両方が含まれるとされています。本記事で扱う「セカンドキャリアへの移行」は、このうち競技引退に伴う予測可能な移行の一種として位置づけられます。
発達的トランジションモデル(Wylleman & Lavallee, 2004)
ベルギー・ブリュッセル自由大学のポール・ウィルマン氏とイギリス・アバティ大学のデイビッド・ラバリー氏は、2004年に発表した論文(書籍の一章)でアスリートの発達を「競技レベル」「心理レベル」「対人関係レベル」「学業/職業レベル」という4つの層で捉えるモデルを提示しました。このモデルでは、競技を離れるタイミングと、進学・就職といった学業/職業面での移行が同時期に重なりやすいことが図式化されています。体育会出身の学生・社会人が「競技の引退」と「職場への移行」を同時期に経験しやすいという構造は、このモデルが示す整理の一つとして参考にできます。
引退適応の概念モデル(Taylor & Ogilvie, 1994)
アメリカのジム・テイラー氏とブルース・オギルビー氏は1994年の論文で、選手が競技引退にどう適応するかを説明する概念モデルを提示しました。このモデルでは、引退の原因(年齢・怪我・戦力外通告・自発的な引退など)、適応に影響する要因(自己認識、社会的アイデンティティ、引退への準備度合いなど)、利用できる資源(社会的支援、経済的な備え、コーピングのスキルなど)の組み合わせによって、引退後の適応がスムーズに進む場合と、困難が生じる場合の両方があることが説明されています。この枠組みは、「引退=一律につらい」ではなく、資源の有無によって適応の道筋が分かれることを示している点が実務上参考になります。
発達的スポーツキャリア研究(Stambulova, 1994)
ロシア出身でスウェーデン・ハルムスタード大学の研究者ナタリア・スタンブロワ氏は、1994年の論文でロシアの競技者を対象にした調査をもとに、キャリアトランジションを「対処すべき一連の要求(デマンド)に取り組むプロセス」として捉える視点を示しました。この視点では、移行がうまくいくかどうかは、選手が使えるコーピングの方法と、移行を後押しする資源、移行を妨げる障壁とのバランスによって決まるとされています。競技からの移行に限らず、環境の変化に対応する際の一般的な考え方として参考にできる枠組みです。
相関と因果の区別:研究が示していないこと
これらの研究が示しているのは、「競技からの移行期には心理的な負荷が生じうる」「適応の道筋は資源の有無によって分かれる」という傾向であって、体育会出身者と職場での定着・活躍との間に因果関係を証明したものではありません。研究の対象はいずれも競技からの引退・移行そのものであり、日本企業への就職後の職場適応を直接検証した調査ではない点にも注意が必要です。「トランジション研究があるから、体育会出身者の早期離職は説明できる」といった因果の断定や、「体育会出身者は全員、入社後に適応の壁にぶつかる」という一般化は避け、「移行期に負荷がかかりやすい社員がいる可能性がある」という示唆にとどめて活用することが適切です。
スポーツと職場組織の前提条件の違い
トランジション研究の知見を採用・オンボーディングに応用する際は、スポーツと職場組織で前提条件が異なる点を踏まえる必要があります。スポーツでは、勝敗や記録という結果が試合ごとに明確に示され、フィードバックの頻度も高い環境が一般的です。一方、職場では成果が出るまでの期間が長く、評価のタイミングも人事評価のサイクル(半期・年次など)に沿って行われることが多く、競技ほど頻繁でリアルタイムなフィードバックは得にくい環境だといえます。また、スポーツでは目標がチーム・個人ともに比較的明確に共有されやすいのに対し、職場では部署や役割によって目標の明確さや共有のされ方に差があります。こうした前提条件の違いを踏まえずに、競技でのトランジション適応をそのまま職場適応の指標として扱うことは避けるべきです。
採用・オンボーディングへの示唆
以上を踏まえると、トランジション研究から得られる示唆は次のように整理できます。
- 体育会出身者に限らず、複数の移行(学生から社会人、競技引退から新しい生活)が重なる時期は、心理的な負荷がかかりやすい可能性がある
- 移行への適応は、本人が使える資源(周囲のサポート、事前の準備、コーピングの方法)によって差が出る可能性が示唆されている
- 入社直後の面談で、競技引退の時期や、引退後の生活の変化についてどう感じているかを尋ねることは、本人の状況を把握する一つの手がかりになりうる
- ただし、これらはいずれも参考情報であり、体育会出身者すべてに同じ対応をすればよいという指針ではない。個々の社員の状況を確認しながら、オンボーディング設計に反映することが望ましい
内定者フォローや入社後のオンボーディング設計を具体的に見直す場合は、体育会学生の内定者フォロー設計やオンボーディング設計の基本もあわせてご覧ください。また、早期離職の背景を別の角度から整理した体育会出身の若手はなぜ辞めるのかでは、入社後ギャップという視点から離職防止を扱っています。
まとめ:移行期への配慮は「示唆」として設計に組み込む
アスリートのキャリアトランジション研究は、競技からの引退・移行という局面で心理的な負荷や適応の個人差が生じうることを示してきましたが、体育会出身者の職場定着を直接証明したものではありません。採用担当者にとっての実務的な意味は、「体育会出身者だから」という属性による一般化ではなく、複数の移行が重なりやすい時期があるという視点を持ちながら、入社後の面談やオンボーディング設計に反映することにあります。
体育会人材のオンボーディング設計についてご相談がある場合は、採用のご相談からお気軽にお問い合わせください。
参考文献
- Stambulova, N. (1994). Developmental sports career investigations in Russia: A post-perestroika analysis. The Sport Psychologist, 8(3), 221–237. https://psycnet.apa.org/record/1995-07797-001
- Taylor, J., & Ogilvie, B. C. (1994). A conceptual model of adaptation to retirement among athletes. Journal of Applied Sport Psychology, 6(1), 1–20. https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/10413209408406462
- Wylleman, P., & Lavallee, D. (2004). A developmental perspective on transitions faced by athletes. In M. Weiss (Ed.), Developmental Sport and Exercise Psychology: A Lifespan Perspective (pp. 507–527). Fitness Information Technology. https://researchportal.vub.be/en/publications/a-developmental-perspective-on-transitions-faced-by-athletes/